○コンテンツ過多時代における情報発信モデルとメディアリテラシーへの喚起に関する研究の足がけ


現在ITバブルは崩壊し,冬の時代と言われており,IBMのPC部門売却に始まり,ここ数年間でハードウェア市場は統廃合が進むと思われる。
ただ全般的な不景気というよりは,現在は過渡期であると言った方が妥当であろう。

日本でのPC,ブロードバンドの普及もおよそ頭打ちになった現状しなくてはならないのは,情報を扱う技術と,そにれよって得られる情報の選別能力,いわゆるメディアリテラシーの養成である。

最近のメディアの動向を見ていると,印象操作が日常的に行われている感がある。その手口も,ネットの普及により消費者が多数の情報源を得られることから,昔ながらの捏造記事や歪曲記事から信頼性の薄いソースをまことしやかに取り上げる手法に変わり(参考リンク:年の最後にソースロンダリング),より一層メディアリテラシーの能力が必要とされていると思うのであるが,どうもあまり浸透してないと思われる。
数年前はメディアも特集を組んでいたほどだったのに,最近ではこの言葉を見かけることは少ない。
私が考えるにこれはメディアの操作ではないかと思う。
視聴者の望みを早期予測し逐次対応したコンテンツを用意するよりも,ある程度ユーザの好みを捉えた上で,メディア側から都合のいい流行を押しつける方が楽であるから。
今年にみられる韓流ブーム(間違っても「ハンリュウ」などと発音しないように,ここは韓国ではなく日本だ。なんでよその言葉を話さないといけないのだ?)は電通主導と言われている。多くの国民が,これは一過性のものにすぎないと認識しているだけましではあるが。

こういった情報教育不足は教える側の未対応もさることながら,受ける側の意識不足も多い。
あるサイトでこのような(リンク:『これ以上簡単に説明できない』)記事があった。
これによると,PCの扱いの「教えてもらう側」と「教える人」の差,これは「知識の絶対差」ではなく,「意識の差」であるところが大きいという。
曰く,「教えてもらうだけで自分から覚える気のない層」というのが現在の大半の一般人である。デジタルディバイドはここにも現れているが,困ったことにこういった格差を感じるのは一般人ではなく,知識層である。一般層はあまりにも無自覚である。

よっていま必要とされているのは,メディアリテラシー教育を行う上での,その必要性をコンテンツ消費者にしっかりと認識させるための情操教育の発展である。
「意欲的に」取り組む消費者を増やさないことには,コンテンツの根本的改革ならびに慢性的不景気は解決しないのではないだろうか。

私は,情報機器と人を結びつけるための仕事を将来したいと考え,双方からの融和発展が目標ではある。
意欲をもたせる手法,などというのはまったく門外漢ではあるが人からのアプローチとしては欠かさぬことができないので,本格的に研究する。

参考
「低下」相次ぎ募る危機感(Yomiuri On-line)
メディアリテラシーとは(IT用語辞典e-Words)
メディア・リテラシーの世界(Media Literacy Project in Japan)